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これの何が凄いのかと言うと、全軍ではなくて西方軍のみだった。
強さ的にも規模的にもこれはいわゆる”自然災害”みたいなものだなとんでもなさすぎる抵抗はマジ無意味というか余計酷いことになる
モンゴル軍遠征の全体を俯瞰する動画はあまりなく、面白かったです。リーグニッツってほぼドイツの近くなんですね。。モンゴル軍の行軍速度は近代の機甲部隊と変わらなかったいうし、いかに無双だったかが伺える。
チンギス・ハーンのモンゴル統一を掛けたジャムカとの十二翼の戦いとかも解説して欲しいです
本当の意味での「世界史」は規模から言って モ ン ゴ ル 帝 国 から始まる。それまでの歴史は地方史である。
Penping Chan 豊かな表現に研究に深さが気に入りました。モンゴル旅行手配、見積もり可能ですよ。モンゴルより。
@@TravelMongoliaToursCom-wn4hu モンゴル出身なのですか?
豊かな表現に研究に深さが気に入りました。モンゴル旅行手配、見積もり可能ですよ。モンゴルより。
滅茶苦茶面白すぎです!
そりゃあ朝青龍や白鵬見たいなのが絶えず攻めてきたら恐怖するだろう
そんな大柄の男では重くて、馬はたまりませんね。
@@イチエフ 馬界にも朝青龍白鵬がいるんだよ、多分
当時のルーシには、ヒョードルやボブチャンチンはいなかったのね。
想像したら怖すぎw
@@イチエフ 乗り換え、乗り換えでヒャッハーするんやで知らんけど
モンゴルつえぇぇぇぇ…よくある調子に乗って突撃ってのもしてないし…ただやっぱり大国だと内部のいざこざが問題になるよなぁ…
分遣隊だけでヨーロッパを崩壊させるモンゴル帝国さん
ヨーロッパの連中は、見たことのないアジア人がいきなり攻撃してきたのだから、びっくりしただろうな。
カルカ河畔の戦いでモンゴル偵察隊と、ルーシ諸侯・クマン人の連合部隊が戦ったのが初めてかな。ルーシ(ロシア)側は惨敗。ルーシ側はモンゴル軍がどこから来たのか誰なのか知らなかったと言われている。 そして、その十数年後、モンゴルのヨーロッパ大侵攻が始まる。クマン(キプチャク)人はチュルク系の遊牧民だから、モンゴル軍のことは知っているだろう。チュルク系だから、西突厥(トルコ)帝国の子孫なので、トルコ人(モンゴロイド)との混血だろう。突厥遺跡などから混血遺骨が出ている。先住のコーカソイドとの混血の結果、外貌はブロンド族のコーカソイドかもしれない。
モンゴルよりも前にヨーロッパは、アッティラのフン族の侵略を受けてますね。
@@silversurfer512 トルコ系民族(チュルク)の大発展がありました。突厥はステップ地帯に大帝国を作り上げました。シナでは北魏、隋、唐も遊牧民の鮮卑が作りました。チュルクです。突厥は匈奴の別種と記録がありますから、匈奴は民族的にはチュルクです。フン族はいろいろな遊牧民族の集合体だそうです。アッティラはモンゴロイド系のチュルクです。カトリック神父の記録があります。その他、マジャール人、ブルガリア人、ハザール人などもチュルクでしょう。コーカソイド系の多数のスラブ人部族の抵抗を受けた形跡もなく、ヨーロッパに進出してますね。マジャール人はハンガリー帝国を作っています。ブルガール帝国から別れた一派がブルガリアを作っています。ブルガリア人はスラブ系化してますが。現在のチュルクを話す民族はモンゴロイド人種だけではありません。ロシアにはチュルクを話すコーカソイド民族もいます。中央アジアの国々もチュルク系。トルコ人はアナトリアの先住民族と混血してコーカソイドです。
@@イチエフ さん『突厥が匈奴の別種と記載がある。』というのは、史記か何かですか?それだけで匈奴をチュルクと断定するのは、あまりにも根拠が薄いですよ。当時の中国側の認識では、モンゴルもチュルクも同じ仲間の別種という認識だった可能性もあるので、匈奴がモンゴル系だった可能性もまだまだ捨て切れないと思います。たった一行の記載を根拠に物事を決めつけてしまうのは、危険だと思いますよ。
@@silversurfer512 そんな史記などではなく、WIKIに真っ先に書いてあります。(そのレベルの知識ですみません)(突厥 匈奴)で検索できます。
ジンギスカンの歌を聴きたくなった
あの歌は、西洋人のモンゴル人への憧れなんでしょうか
これもお勧めです!ruclips.net/video/pD1gDSao1eA/видео.html
遊牧民についてちょっと面白いのが、長い長い遊牧民や騎馬民族の歴史の中で、常に一番東にいるモンゴル高原の部族が一番強くて、チンギス・ハンのモンゴル帝国の前も後も、遊牧民族、騎馬民族は、いつも東から西へ西へと攻め込んでるっていうことですね。匈奴がフン族となり、フン族のアッティラがゲルマン民族やローマ帝国にまで攻め込んだこと然り、モンゴルから追い出された突厥が、ついにはオスマン・トルコという大帝国を地中海周辺で打ち立てたこと然り。これに対して、ハンガリーやカスピ海周辺にいた遊牧民族、騎馬民族が、逆に東へ東へと攻め込んでモンゴルや中国を支配したなどということは、一度も起きていない(遊牧民、騎馬民族に限定しなければ、アレクサンドロス大王の例などはありますが)遊牧民はどうしていつも東から西へのベクトルだったんでしょうか?どなたか御存知でしょうか?
@Hernando Malinche さんありがとうございます。仰る通りですね😄部分的には、そのように西から東への侵略もあるようですが、全体的なトレンドとしては、やはりほとんどが東から西へのベクトルですし、特に、モンゴル高原が、西から来たモンゴル以外の他の遊牧民から支配を受けたことは、ロシアやソ連の支配を受ける前は、一度もなかったように思われます。モンゴル高原に住む部族がユーラシア大陸の遊牧民の中で常に最強だった。その理由が知りたいのです。
ユーラシア大陸の東に行けば行くほど寒冷になり、環境が厳しければ厳しいほど集団をまとめるリーダーの素質が重要になり、結果的に最強の騎馬民族が出来上がるのかと思いました。
より寒冷で環境が厳しい東部ユーラシアの北方の大地であったからこそ部族をまとめ上げるリーダーの素質が大変重要になり、過酷な環境から肉体や精神が強靭になり、それで西部ユーラシアの遊牧民を圧倒した。また、個人的な推測ですが、モンゴル高原から東へ進出しても日本海やオホーツク海へ行き着くだけですが、西へ進出すれば草原を伝って東ヨーロッパまで通じていますし、気温もどんどん上がり住みやすくなります。結果的に東部ユーラシアの遊牧民が西部へ進出していったのだろうと思います。
合戦歴史最高!
モンゴルって家と家畜や食料連れて行軍できて、しかも二軍に分けて交互に休みながら攻撃するとかやってたんだよね
あれって『敗けた』ことになります?クリルタイのために主力が撤退中、しんがりがマムルークに追いつかれて蹴散らされただけでは?
ジンギスカン作戦。
それはもう行軍ではなく放牧ルートの変更というべきですね。草原である限り食料の心配がないのはチートですね。
そんな中でも混成軍だとしても日本の鎌倉武士、薩摩武士が勝ってんだから日本の武士団は強い。
@@murasaki9295 海を越えての上陸作戦は難しいのでしょうね。鎌倉武士団も蒙古襲来に備えて砦を作っていましたから、とは言え物凄い数の船で攻め寄せたのを追い返したのは天晴れ日本ですよね。
モンゴルがもし改宗を是とする独自性の高い宗教を持っていたら、世界史は全く別のものになっていただろうな。
モンゴルは人口密集地帯だと力出しきれないから、vs西欧は東欧と比べて厳しい戦いになると思う、だからこそモンゴルvs西欧見たかった...
たしかに元々モンゴル軍は野戦を一番得意としてますが、このハンガリー平原まで来た時には既にその前に、ヨーロッパ以上の人口密集地である黄河流域の金を攻略した後ですからね。人口密集地での戦い方も、堅牢な城の攻略方法も、既にかなりの経験と知識を持っていた時期ですよ。それにこの時代の西欧はまだルネッサンスの前ですから、東欧と比べて西欧が特別に人口密度が高かったわけではありません。むしろ西欧はいわゆる『暗黒の中世』の時代ですから、ビザンチンなど、直接モンゴルと対峙していた東欧の方がむしろ、文化的水準は高かったとも言えます。
Silver Surfer そうですね〜、モンゴルは史実でも中国の攻略に成功していますのでモンゴルvs西欧が西欧優勢になるとは私も想像はしていませんね。しかしながらポーランドハンガリーの西方、ドイツ地方は森林地帯なのでモンゴル軍の進行速度は東欧に比べて遥かに落ちるため、西欧勢に反撃・結束の機会を与えることになり苦戦し、神聖ローマ帝国の制圧に失敗っていう感じになるかな〜って勝手に予想しましたw
@@従五位下加賀守 さんそうなる可能性もあったでしょうね!ま、どっちにしてもタラレバの話😄想像するのは楽しいですね!
Silver Surfer 返信ありがとうございました。想像が捗るという意味ではモンゴル軍が途中で引き返したのは良かったのかもしれません...w
何だろう…モンゴル帝国を他人事と見なしていた当時のヨーロッパと、初期のコロナに対して他人事だった当初のヨーロッパが被る…
どう考えても、モンゴル軍は「退却」していないよな。内部事情による「撤退」をしただけだな。
この様な歴史があったから所謂「黄禍論」がヨーロッパに存在するのだろうか、或いはこれ以前なのか、ずっと後からなのか?とても興味があります。
更にさかのぼると、フン族のアッティラがヨーロッパを蹂躙して、それがゲルマン民族の移動の一因にもなっていますね。
元をただせば単なる気候変動
これ帰還命令がこなかったら、ドイツ、イタリア、フランスもモンゴル帝国の勢力圏になってたんじゃ?
そうなってたら現在の盟主は欧州じゃなくてアジアだったかもしれないですね…
一時的にモンゴル系の王朝は出来ただろうけど、中国と同じ感じになるんじゃないかな。
モンゴルよりも前にフン族のアッティラはイタリアやフランス、ドイツまで攻め込んでますが、やはり支配は長続きはしませんでしたね。逆にもし、アレキサンダー大王がもう少し長生きして、インドを征服して、東南アジアを越えて中国まで攻め込んで来ていたら?スリランカやマダガスカル、東アフリカまで到達していたという明の鄭和の大艦隊が、それらの地域に本格的な植民地を作っていたら?想像するのは面白いですね😄
大幅に歴史は変わってだでしょうね。
@@TheA9817020 実際にロシアはタタールのくびきと呼ばれるように200年以上モンゴルに支配されてるけど、結局、中国のように追い出してるからね。一時的に支配されても、結局は同じ流れにいきつくと思う。
10万の内6万人を失うって壊滅を超えて滅亡じゃないか
滅亡というより玉砕に近いな…
彼の最大の功績は、どれだけ情報や物流を残したのか、という一点に尽きると思います。ジャムチという、通行手形、各地に駅(沢山の馬を乗り換える為)を作りより早く情報を得ています。駅と言う漢字に馬が入っている事をお見逃しなく。
駅という漢字を作ったのはモンゴルではなく漢民族ですよ。
面白かった。
なんでこんなに攻城戦がつよいんやー
この頃のロシアの城は、丸太の城壁でできており、土を固めてできた中国や中東の城と比べ弱い。石造りの城壁はずっと後のこと。
合戦歴史、解りやすく見ていて楽しい(*´∀`)♪
そういやもしモンゴル軍が撤退せずに西ヨーロッパも完全占領したらイギリスはどうなるんでしょうかね?
多々良小傘 日本と同じく普通に撃退してたと思うよ。モンゴルは陸では最強だけど、海の上では雑魚だから
3910 339 いやー、それは無理でしょ。海峡間が狭いし何度も海峡を渡って侵略の歴史がある。
モンゴル軍を道案内してたやつ捕まえたらイングランド人だったって逸話ある。
いや普通に無理だと思うよ。
ノルマンディー上陸作戦するに決まってるだろ(時代錯誤)
モンゴル帝国の動画って細かい物だと元時代しかないからヨーロッパのはガチでありがたいこの国はチンギスやオゴデイが有能だったのもそうだけど遊牧民だから普通に超人的な移動にも慣れてたしこんな四面楚歌な状況でも押してたんだよなぁ...
カスピ海、黒海を超えてようやく東ヨーロッパの端にたどり着くのか@_@;
圧倒的な戦力で世界を征服しておきながら気が向かないからと突然帰ってしまうモンゴル軍って不思議。まるで子供のお遊びですね。
お宮さん 相手が弱過ぎて本当にその程度にしか思っていなかったかもね
やつらは、牧草地が欲しいだけだったりするねw いらん都市は住民ごと滅ぼして牧草地に!
そういうことですか。狂ったように都市の破壊を繰り返してきた理由もよくわかりますね。
都市を破壊し尽くした言うのは嘘ね。モンゴルが衰退したあとから言い始めたデタラメ。破壊したはずの街に、数年後に訪れた人が街は繁栄していたという記録があるらしい。パックス・モンゴリカと言われるほど、モンゴルの支配で都市は平和と交易で栄えていた。税金さえ納めれば、あとは各民族が自分たちのやり方で都市を運営できた。宗教も無税で自由だった。
イチエフ キエフの街は破壊しつくされたと歴史書には書かれているけど。近代兵器が無い時代だから石でできた城壁に囲まれた街なら放火しても破壊するのは難しい。残った街もあるのでしょう。
歴史の年表みてもわかるけど、モンゴル軍の進軍の速さは異常だ
そのモンゴル帝国より1500年以上前、アレキサンドロス大王は、たった10年の間にギリシャからエジプト、ペルシャ、アフガニスタン、パキスタンと征服して、インド西部にまで攻め込んでますね😄
モンゴル軍怖すぎる❗️破壊し過ぎ❗️
その後サライに到着したバトゥは彼の地でハーンになり金帳汗国(キプチャック=ハーン国)を建国したのでした。一説にはオゴタイの長男グユクと仲が悪くモンゴルに戻ってもハーン候補に洩れる可能性が高いと悟っていたようです😔😔😔😔😔😔😔😔
そう思うとモンゴルに陸戦で勝ったベトナムすげー。どうやって勝ったかは知らないけど
Well only yuan empire raided them if that was all Mongolian empire force only few historians know that Vietnam
ベトナム戦争と一緒、ジャングルに籠ってゲリラ戦やぞ。ジャングル内じゃ駿馬も無意味だからな
兵数が圧倒的に負けてる方は奇襲かゲリラ戦術を採るしかないからな
まあ勝ったというよりは、負けなかっただけであるが。ベトナム戦争もそう。ベトナムがアメリカの領土を獲得したとかならまあ勝ったとも言えるがベトナムはアメリカを空爆すらできなかったし(そもそもそんな技術も航空兵力もない)、ただ負けなかっただけ。欧米とガチで全面戦争をしたのはモンゴルと日本くらい
ベトナムは常に防戦の歴史ですからね。対中国、アメリカ。
海での戦いに慣れてないとは言えこれだけの大国に勝った鎌倉武士って半端ない。
モンゴル軍は騎馬兵力だけど、日本に攻めてきたのはモンゴルの家来の高麗兵だ。モンゴル人はいない。また、南宋水軍の棄民兵だ。モンゴル軍(モンゴル人はいない)は海での戦いはすべて負けている。
第五代将軍の徳川綱吉が戦国時代の荒々しい武士の風潮を一掃するために生類憐れみの令を出したと言われていますね。天下の悪法から、評価が180°変わりました。そして、武士は公務員に変わりました。
@SS兄貴 野蛮ではない。統制のとれた勇壮で意気軒昂な、かつて源平の戦で鳴らした関東の平氏出身者が九州地区に所領の地を得、彼らの子弟が中心となって組織された優秀な軍団だ。本物の武士の精神を有するツワモノ。 元禄以降の武士は士族の地位に寄りかかって生活した腰抜けサムライだ。
kei yu 確かに武士たちって集団戦法使ってたからね
鎌倉r時代って街道も整備されてなく、追い剥ぎが出没するという時代でしょう。京に上京したら、戻る事ができず羅生門の前で行き倒れ。高麗兵(モンゴル兵)が来る前に博多に到着した鎌倉武士は、博多の街を略奪したと言われているよ(食うものがないから)。江戸時代と異なり、当時は略奪しないと生きていけないほど、食うものが少なかった。
18:10〜辺りから流れてるbgmなんですかね...気になる
しかし、時の流れに勝てなかった。
農耕民族でないので家畜とゲルと武器さえあれば闘い続けることができる。徹底的に破壊したので背後を突かれることもない。東ヨーロッパのバラバラ敵対関係の諸国にはエイリアンの侵攻だったろう。敵を理解できずに負け。そういうことだったのかと勉強になりました。
ヨーロッパがいちいち内輪揉めと策謀で対応できてなくて草
EUと英国。 英仏が仲間でいられる訳がない。 英独も仏独も良好な関係なんてありえない。
今でもやってんじゃん!
そしてモンゴル軍もこの前のホラズム・シャー国侵攻の時から、親族同士で仲間割れ。二代目のオゴダイが死んだ後は本格的な骨肉の争い。内部分裂が始まりましたね。
こんなに凄い国が、どうして今のようになってしまったのでしょうか?
元の時代に中国化しちゃったからね。ユーラシアに散った一族の帝国もバラバラに解体されたし近代に入ると日本、ソ連、中国にちょっかいを出され、内モンゴルと外モンゴルに国が分かれたりと大国の思惑に翻弄され続けた
騎馬民族は人口が少なすぎるからね。
騎兵の機動力と弓馬に乗りながら弓射てる無敵の戦術も銃の時代になれば
すずきもとゆき なんか朝鮮と同じような感じか
ホルティミクローシュ 別にそこのとこを言ってるわけじゃない
よくあの時代に陸路でヨーロッパまで行こうと思うよね。征服しても維持できないと思うけど、土地を支配するより、略奪できればくらいの感覚だったのかな?本国まで持ち帰るだけでも大変だと思うが。ところで、この辺の侵攻の歴史ってモンゴル側では文書で残ってるんでしょうか?それとも迎撃した側の記録?
何のために遠征したのか非常に不思議だ。入植しないなら意味ないじゃんと思う
敗退した側が作ったデタラメの歴史書が多い。特にロシア側の歴書はインチキで、18世紀に言われ始めた「タタールのくびき」説がいまだに言われている。モンゴルの支配下で、モスクワが発展し、ロシア、ベラルーシ、ウクライナが作られた事実を隠している。モンゴルは税金さえ払えば、都市の運営はそれぞれの民族の主体に任せた。宗教も自由だった。モンゴル人も定住化した人々は多数の周辺民族と混血して、現地化し現地人と区別ができない。
イチエフ日本的な思考なら歴史書デタラメって想像できないんですが、外国だとそんなもんなんですね。遠征の理由は人類として、混血することをDNAが本能的に求めてるのかもしれないなと思いました。
ほとんどの『歴史書』なんてインチキ。一方的なことしか書いて無いけど、モンゴル族は自前の文字を持ってなかったので、シナの王朝記とかペルシアの集史に頼るしかない。まあ、支配される側からするとかなり酷いことをしたんだろうと想像するくらいしか。それでも宗教弾圧は無かったとどの国の記録にもあるので、宗教の自由があったのは分かっている。ちなみ、遊牧騎馬民族の遠征の目的は収奪。貴金属や穀物、シナではシルクなんかを巻き上げるだけで、その土地を『支配』しようとか思っていなかったらしい。だからシナで明王朝が勢力を増した時、“蒙塵”といってモンゴル高原にさっさと後退している。基本的に『農耕民族』とは生活様式が違いすぎて、日本人には理解しにくい部分が多い。チンギスの名臣、耶律楚材が『馬上で天下は取れても統治することはできない』と諫言したが、果たして理解していたかどうか・・・
クヌギタックルさん耶律楚材の言で良く理解できました。我々農耕民族は、土地に執着するけど、確かに騎馬民族的には大きな比重は占めませんよね。
東欧諸国が今も余り富国が多くないのには、このモンゴル帝国の侵攻と徹底的な都市破壊も原因の一つなんじゃないですかね〜
WW2で共産圏に飲み込まれたからだと思う
そう、共産圏に傾向した結果。反共を唱えたドイツは富国に復活してる。
まあ単純に二度の大戦で蹂躙されて国が荒れたり、国境線が安定しなかったこととか、そもそも国が小さかったりとかもある。
西欧の発展の最大の理由はアメリカ大陸からの富の移転です。アメリカ大陸東海岸と西ヨーロッパ沿岸地域での貿易が活発化するに連れて西欧は発展しました(資本の本源的蓄積)。大航海時代以前はアジアとの貿易が西欧より活発だった東欧の方が発展していました。そもそも大航海時代の主要な理由は地中海の貿易ルートをオスマン帝国に蓋されてしまった事です。なのでヨーロッパの中でも一番西側でジリ貧になったポルトガルやスペインが海へ出ていきました。ポルトガルやスペインはアジアとの貿易を求めて海へ出た訳ですが、ここにはモンゴルの影響があります。世界のあらゆる地域はモンゴルの支配というのを直接的または間接的に経験しています。モンゴルの支配というのを世界のあらゆる地域が経験し、それによってかつてない世界の広さを思い知ったのです。ヨーロッパ諸国が海へ出た理由にはこの背景があります。大航海時代もモンゴルの延長線上だと言えると思います。
もしオゴデイさんがもう少し生きていたら...もしバトゥが帰還命令を無視していたら...((((;゚Д゚)))))))ガクブル...
モンケはキエフに降伏する旨の勧告文を送った。キエフの王はモンゴル語で書かれた文の意味を理解することができず、無視することしかできなかった。っていうこととかないのかな?笑
欧州は兵略って余り有効に仕えないよね。
有名なタタール人にはアリーナザギトワ選手がいますね!
モンゴル軍が元寇で日本に勝てなかった理由一番は普通に鎌倉武士が強かった二番は半島が味方だった三番は海を隔てて騎馬戦法が使えなかった
馬がなけりゃあ、モンゴルの連中も河童みたいなモノよな
あとどこの国もそうだろうけど上陸戦ドクトリンがなかったことかな?
世界で唯一モンゴル兵の射程を上回る大弓が存在していたことと、世界で唯一の重装弓騎兵が命を恐れずに突撃を繰り返すキチガイ蛮族の地だったこと
日本に来た元軍にモンゴル人はほとんどいない。高麗人とか江南軍で構成されたモンゴル外人部隊。しかもモンゴルは江南軍の始末に困っていたので、日本で廃棄処分ができた。兵士も総じてやる気なし。こんなものをモンゴルだと言うべきではない。
正義のユーチューブの広告面白いな。
モンゴル軍もっとヨーロッパに居ればよかったのになぁ…
そのかわり美しい金髪碧眼美女はみんなカッパ顔の女になってた
@@digwart1454 日本人みたいなねw
実はフレグの征西の目的も最終的にはフランスやイングランドの征服でした。バトゥの征西やフラグの征西も、両方とも大ハーンの死で撤退しています。バトゥは背後からグユクに攻撃される恐れがあった為です。たらればの話ですが、フレグの征西でエジプトが崩壊した場合、北アフリカから地中海沿岸を通ってイベリア半島(スペイン)に上陸してヨーロッパを目指したと思います。なぜならイスラム王朝がかつてそのルートでヨーロッパ侵略を行った歴史があるからです。ジョチウルスとの協力があればアフリカ方面と東欧方面からの挟み撃ちでヨーロッパを征服できたかもしれません。モンゴル帝国は内紛が激しいのであり得ない可能性の方が高いですが。
この時代、ブルガールの存在をどうやって知ったのでしょうか?
チンギスの長男は、実子やないって話があるので、遠征をやらされるんやろうね。
これに比べたら大日本帝国は優しすぎたね
弱すぎたの間違いね。
@@tosiasaitou3722 兵士は強いんだがな
この圧倒的な強さ、モンゴル帝国史の恐ろしくも痛快な侵略の歴史ですね。後半は歴史の常で悲しいものであっても。
エジプトで敗けたのは、オゴデイが死んでクリルタイの開催が決まっていたので撤退中のしんがりが蹴散らされただけ。ヨーロッパは当時、文明的には“田舎”なので進撃する価値無しと判断したっぽい。そも、その当時のヨーロッパ列強はハンガリーとかポーランド。フランスは現在の半分くらいしか領土がないし、イギリスは片田舎の辺境島(しかも内部統一以前)、ドイツは神聖ローマ帝国時代で内部バラバラ。タタール再来の場合、これらが抗しうる可能性は限りなく低く、ヨーロッパ“大陸”ではなくヨーロッパ“半島”になっていたと思われ。
『西欧』(英仏独)が強大国になるのはまだ随分と先。この時代は『十字軍』と重なることを考えれば解りやすい。田舎の国々がキリスト教世界で発言権を持つために参加したのが十字軍。その十字軍はイスラム勢力に食い込むのがせいぜい。最終的には中東から撃退されている。それと比べれば、イスラムと近い位置にあった東欧はそれなりの軍事力を有していた。無論、文明も。特にハンガリーなどはビザンチン帝国(東ローマ帝国)の近隣ということで文明度は高い。またハンガリー領内に移り住んだ遊牧騎馬民族を自軍に組み込んだりもしている。詳しくは、モンゴル帝国に関する著作を読めるわかる。
クヌギタックル 十字軍戦争の原因が分かる?ヨーロッパが復興し過ぎて、人口が溢れたからね。人口溢れて当然に商業貿易も盛んだ。これは田舎だと言える?ローマは崩壊しても、ローマの宗教領地が保留し、ローマ市と繋がっている。田舎者と言えるのはあくまで5世紀から8世紀まで侵入者領主だ。何百年の建設もあって、詩歌・礼儀・法律・経済などは全部先進的なものである。例としては、現代の銀行や信託は12世紀のフランスで初出現したのよ。
桜維新 よく分かった。アナタがヨーロッパ、特に西欧信仰の徒であることは。そんなアナタには『十字軍物語/塩野七生著』辺りをオススメしとく。ついでに『モンゴル帝国の興亡/岡田英弘著』辺りも。
クヌギタックル ???ハンガリーが文明高いだと?東ローマと近いから文明高い?あなたの歴史は地図を見て自作した物ですか?ハンガリーの宗教は正教じゃないよ、長い時間に東ローマに影響されてない未開化、むしろフランク大帝に影響されて漸く文明化した、証拠は宗教がドイツ伝来の天主教だからね。ハンガリー5世紀外来に占領されるから、ずっとスラブ野蛮人に侵略される。彼らとビザンツとの間はスラブ野蛮人の諸国に阻断されている…ハンガリーは歴史から住む人が少ない、後にアジアの遊牧民族が侵入してそこに定着、今の🇭🇺の名前を見ればわかる。
朝青龍とチンギス・ハンが重なって仕方なかったし、朝青龍がめちゃくちゃ強かったからそりゃモンゴル帝国強いわなと納得しちまったよ。モンゴル人には、海なかったらガチで日本征服されてたかもと思ってる。相撲のモンゴル勢の圧倒的強さヤバいからな。
朝日新聞紙は潰れろ 寄生虫です 白鵬。
モンゴル軍ヤバすぎて笑ったwヨーロッパ行ったとは聞いていたけれどマジでオーストリアとか東欧まで行ってたのかよwあの時代にあんな遠く離れた所まで行こうとする冒険心も凄いと思うし、あんだけ遠距離の遠征で季節や風土の違いを無視して暴れ回るって意味不明すぎないか?
言うてモンゴルからヨーロッパまで数千キロだし、馬に乗って時速数十キロメートルなら意外と早く着く
モンゴルヨーロッパ遠征軍を謎のイギリス人修道僧が先導していた事実。
何それ怖い
ソースは?
モンゴル軍のイギリス人使節―キリスト教世界を売った男 (角川選書)
@@みのる-g9g へ~、そんなのあるんだ。モンゴルのことは興味を持ってきたが、初耳。貴方は詳しいのかな?まぁ調べみます。ありがとう。
この頃からブリカスなの草
ドイツや日本を非難する奴らはまだまだいるがこいつらを非難する奴はもういないのか(笑)それどころか歴史的英雄なのか
冬のロシアに勝つモンゴル軍と、全盛期アメリカを撃退したベトナムよ....
アメリカはホーチミン裁判で裁かれるべき‼️
大河が凍ってないと馬の進軍はできない。
敗戦の原因は、アメリカ軍に韓国軍が加わったからだね。韓国軍は傭兵だから占領地に責任を持たない。だから虐殺を平気で行い、地元民を敵に回す。こうなると、ジャングルのどこを進軍してるか、敵軍に筒抜けになる。地元民をいかに味方にするかなど考えない。
ベトナムがアメリカに勝ったって所詮写真やんけ
経済的に圧倒していた南ベトナムでは政治の腐敗と汚職がはびこり、国民に愛想をつかされ、捨てられた。また政権の中枢にまで北ベトナムのスパイが浸透しており、南ベトナム崩壊は時間の問題だった。敗戦後、南ベトナムに進駐した車に、北ベトナムの国旗と南ベトナムの副首相が乗っていた。
当時のヨーロッパには鎌倉武士ほどの戦闘力がなかったのかな?
あの辺りの女性がキレイなのってこういう歴史があるからなんやね
現代のEUが中国資本に弱い理由はモンゴル軍のトラウマが根底にあるんやろなw
長い年月をかけて超大国本来のポテンシャルを発揮してきたからでしょう。近代という特殊な時代は中国やインドと言った超大国には適応するのに時間がかかり過ぎます。しかし時間が経てばやがてテクノロジーの発展等近代化の産物を受容し、社会が成熟してかつての様に超大国としての中国やインドとなるでしょう。今ではアメリカも超大国ですが。ヨーロッパ、というよりドイツやイギリスは超大国ではありません。国土面積、人口、資源等諸々の条件を考えても中国やインドとは並びません。超大国には超大国たる理由があるのです。
蒙古馬なんて日本の在来種よりも一回り小さいのにね、原チャリに載った朝青龍や白鳳の大群に攻められた感じかな??
ヨーロッパ侵攻の頃のモンゴルは各地で混血して白人的な容貌を持つ者も少なくなかったそうです。スキタイなどがモンゴル系ヨーロッパ人ですね。
そうかな?ソースは?少なくとも大将とかその他の上層部はモンゴル高原中央からきた純血だったんじゃない?
スキタイ(イラン系)ですね。モンゴル以前に突厥(トルコ系)、更に前に匈奴(トルコ系、モンゴル系?)がいますね。スキタイから匈奴に騎馬の技術が伝わったと言いますね。モンゴル支配層は血統を大事にします。チンギス・カンの男系子孫しかハンになれません。(チンギス統原理)
スキタイはモンゴルよりもずーっとずーっと古い時代ですね。モンゴル軍の西征の時代も現代も、スキタイという民族は存在しません。
新疆ウイグル自治区で発掘されたローランの美女は3800年前の、完全なコーカソイドのミイラです。コーカソイドは、この辺にずっと住んでいたんです。更に広く、このあたりからヨーロッパまで小さな部族単位で、広がっていたのでしょう。その後、モンゴル高原あたりで出現したモンゴロイドが、西進して広がっていきます。特に突厥帝国(トルコ)の発展は目覚ましいものでした。モンゴロイドからコーカソイドまでチュルク語を話す民族が多く誕生しました。シナの北魏、隋、唐を興した鮮卑族もチュルクらしいです。
侵略略奪山分けの繰り返し滅ぶまで続く。撤退は敗北。
これだけ広大だと略奪しきれないというか、逐一本国まで輸送させて溜め込んだんですかね?
@@nack6959 モンゴルの略奪もあったろうが、婚姻で親戚関係になる戦略も多かった。チンギス・ハーン500人の妻がいて、各領主や部族長が積極的に娘を差し出し親戚関係になった。保護国となったんだね。税金さえ差し出せば各領主の裁量で自分の都市を運営できた。一方、兵士はモンゴル軍に組み込まれた。差し出された娘も一応王女だから、丁寧に扱う必要があったろうけど、こんなに多くてどうしたのかね。結局、チンギス・ハーン家の一族で分けたんだろうと思うけど。
@@nack6959 さんモンゴルは元々狩猟遊牧民族だから、物を溜め込むということにはあまり興味なかったんじゃないですかね?とりあえず攻めて倒して、力と恐怖で服従を誓わせて、女や酒、欲しい物は奪って、いっしょに従ってついてまわったウイグルやチュルク、イスラムの商人なんかもいただろうから、いわゆる財宝の類は彼らに任せて、目録ぐらいは作らせて、モンゴル人の軍人たちは、あいかわらずゲル(テント)に住んで、馬たちといっしょに更にどんどん西へ進む。
@@silversurfer512 オゴデイハーンがクリルタイを開き、世界征服を決定した。その計画に基づいて、各地を調べ上げ征服を行った。まず最初はヨーロッパ征服だった。モンゴル軍は請負制だから、略奪品や人間公平に出資者(参加部族)にわけられた。戦線から離れ、略奪品を回収しようとした部族は厳しく罰せれれた。
そんなイメージですね。高速焼畑農業的で、略奪原資がなくなるか、略奪分配差配が上手に出来る君主が居なくなれば瓦解。文字と文明の蓄積が薄いので、非征服民族の書く歴史からは消え、血は残り続けるんでしょうか。
??「朝青龍の音ぉ!」
モンゴルの軍師ってのは、居たのでしょうかね?
この人たち国を取るつもりじゃなくて狩りの延長できちゃってるよね・・「今年はいい獲物とれたなー」って喜んで帰って行ってる感じする(笑)
モンゴル軍と言っても多民族集団だし今のアメリカみたいな感じか?
今のアメリカみたいに人種まで雑多ではないだろうけど。主にモンゴル系、中国系、中央アジア系、トルコ系などを中心とした感じかな。まぁ大将とか上層部はほぼモンゴル高原中央からの連中だろうけど。
ヨーロッパの君主たち逃走ばっかりだなw 北条時宗のほうがよほど立派だ。
北条時宗は英雄ですよね。もっと評価されて、銅像とか神社とかあってもいいと思います。追記・鎌倉幕府が出来てすぐに承久の乱があったから、明治維新後の歴史観では、北条氏は朝敵扱いなんですね。
Silver Surfer なるほどそう言うことかだから頼朝の銅像はあるんか
あなた地続きの恐ろしさ知らないから、、
@@1126rr シミュレーションゲームでも毎回思うけど海って言う防衛ラインくそ強いんだよなぁ( ;´・ω・`)陸続きだとめっちゃ防衛難しいw
ハンガリーの王とかは戦争に負けて逃げたけど、その後モンゴルに荒らされた国の復興に尽力して結構評価されてますよ
解説の声が聴きづらい。
さすが、朝青龍や白鵬の故郷U^ェ^U
破壊と略奪、殺戮の限りを尽くし、ヨーロッパを席巻したモンゴル帝国、史上最強の軍団。その侵攻を退けた鎌倉武士が如何に凄いかがわかる。
鎌倉武士が戦ったのはモンゴル軍じゃなくて、高麗軍とか江南軍などで構成されたモンゴル帝国外人部隊。参加した兵士はやる気ないし、鎌倉武士が特に強かった訳でもない。
@@hd580 その通りです。モンゴル軍は敵国は降伏すれば、家来にして、歯向かえば破壊したのです。
実はモンゴルが日本に襲いかかる前に、数十年も勇気ある高麗人が盾になっていました。また、鎌倉幕府は東北地方まで何重にも御家人を配置しており、例え台風という神風が無かったとしてもモンゴルを撃退していた可能性が高いです。この時は泥棒までもが蒙古撃退に協力する為に肩と肩を組んだと言われています。
焼き畑農業のように人の富を取っていくのね。ロシア人とモンゴル人は仲良くしているのだろうか。
コレって、ある意味日露戦争の時より意味有ると思いませんか。
思わんね。そもそも侵略しまくりの大悪党国白人打ち破りより防衛で何処から攻めてくるか判らないロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本の方が凄いと思います(断言)
比較するのが間違いでしょう。衰退したロシアと極東の小国との戦争が、モンゴル帝国の西征と何を比べられるの?
世界史に疎いんだけど、なぜ、遠征を中止したの?
大ハーンを選ぶ時の選挙には有力皇族は強制参加だから本籍地に帰った
@@deadby15 ありがとう。再遠征はなかったんだね。
オゴデイハーンが死んで、次のハーンを選ぶためのクリルタイ(最高意思決定)が行われた。また、寒冷化が進み、ヨーロッパの草原での家畜の放牧が不適当になってきた。その為、十分に草があるステップ地域に留まった。
十字軍とくらべてどちらが凶暴なんだよ。
朝青龍みたいな奴等が馬乗ってヒャッハーするんでしょ?誰も勝てないよ
そのモンゴル帝国に勝つ日本とベトナム、日本は最初は台風で命拾いして二度目の戦いは高い厚い壁を作り戦術や軍事改革をなして勝利、ベトナムは異常なまでの暑さ地の利を生かして勝利
おい、シンガサリ王朝のこと忘れてるぞ。
日本が勝った訳じゃない、たまたま自然が勝ったんだ。台風無かったら日本は即絶滅してる。
日本は神風のおかげだから
三別抄の乱
日本は騎馬隊来てないからメッシのバルセロナをバスケでボコボコにしたような感じ
都市を破壊ってなんか現実感がないのだが、、、なんか分かりやすい例えないですかね?
東京大空襲?
原爆とか…?
1000人の中国人鉄砲隊を連れたモンゴル軍バクダードの戦いja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ロシアの冬将軍どこにいった
モンゴルも同じようなもん
モンゴルのほうが寒いって聞いたことあります
字幕付きって、字幕無いじゃん!
東の某島国に攻めこんだのは失敗かもね。戦闘民族がいたし(笑)。
苦境につけこみ2014年のクリミアを思い出したよ変わらないね
そのモンゴル軍を撃退した鎌倉武士の強さ!馬がいてもいなくてもモンゴル軍は十分に強かったはずだ。
日本に攻めてきたのはいわゆるモンゴル軍ではなくて、モンゴル軍の外人部隊。モンゴル人はほとんどいなかった。
冬のロシアを制圧って、モンゴル半端無えな😅
川が凍ってないと馬で攻撃できないからね。凍った川を遡って移動したらしい。
モンゴル軍人にとってロシアの冬は日常風景、彼らはシベリアで生活してそこから台頭してきたから。
モンゴルしかり、日本陸軍しかり、アジア最強、欧米敵にあらず‼️
ヨーロッパがとにかくgdgdだけど、もし元寇が観応の擾乱の時期だったらもっと酷いことになってたかも。尊氏とか直義とか直冬とか時行とかなら簡単にモンゴル側につきそう。
一年、草原で休みって言うのは、「現地調達」or「備蓄食料」?でも、モンゴルは遊牧民だから「自給自足」もありえる?
モンゴル軍のはるか後ろから、羊の群れを引き連れて一族の女達がテントを持ってついて行く。ジンギスカンも遠征のときは4人の妻のうち一名を指名して連れて行った。
@@イチエフ とある国の将軍が「現地調達の牛連れて行軍すれば行ける、ジンギスカン作戦じゃーい」とか何とか云ってインパール作戦やってましたね
@@popocatfish そうですか?アジアのジャングルの牛は水牛ですね。一日中、水辺で生活してるような動物です。生草しか食べないし、動きも鈍いので連れていくのは無理でしょう。集団行動もしない動物でしょう。遊牧民の家畜は群れる性質があるので、わずかな数の人で群れを操れます。馬なども、脚で雪を蹴り除き、下の草を自分で食える特徴があります。また戦いで馬を捨てても、帰巣本能があり、自分で故郷に戻るそうです。アジアのジャングルは緑の砂漠と言われているように、食料は得られません。(ある時期だけ一斉に果物ができるようです)そういえば、アフリカの森や草原などでチンパンジーが集団で生活してますが、アジアのオランウータンはジャングルで孤独に樹上生活しています。集団では、十分な食料が得られず生きていけないのです。アジアの熱帯雨林ジャングルはそういう所です。インパールも同じでしょう。牟田口廉也もジャングルの雑草を自分で煮て、食えないか実験してたらしいです。
鎌倉時代に日本がモンゴルに侵略されてれば今の日本はなかった。それを救ったのが二回の神風。モンゴルが攻めてきた時に神風が撃退。しかも二回も。これは神風が日本を守ったとしか思えん。
オゴデイが死んでなかったら、遊牧の蛮族にヨーロッパの華麗な文化が破壊されてたと考えるとゾッとする
まぁヨーロッパもなかなか野蛮でしたが
@@自称皇帝 まあ人間どこだってそうでしょ、しかし西洋文明とモンゴル文明ならどう考えても西洋に価値を感じる
中世のヨーロッパで最大の都市はジュチ・ウルスのサライだ。人口60万人とも言われる。ロシア、タタールスタン共和国の自慢だ。シルクロードがつながっていた。
@@ウマナミの皇 そう言ってるんだよなぁ むしろ遊牧民の方が優しそう
ルネッサンス前の当時の西ヨーロッパの文化を『華麗なヨーロッパ文化』と呼べるかどうか?中世のヨーロッパを象徴するのがゴシック建築やゴシック文化ですが、このゴシックというのは『ゴート族の』という意味ですが、『野蛮な』とか、『奇怪なもの』という意味も含まれています。ゴート族は西ローマ帝国に侵入してローマ文化の破壊を行いましたし、その後も同じくゲルマン系のヴァンダル族やフランク族が西ヨーロッパへの侵入と破壊を繰り返しながら、今のドイツやフランス、スペイン、イギリスの元となっていきました。モンゴル軍が東ヨーロッパを荒らしている時代はまだ、それらの国々が形作られていく途中の段階ですので、まだまだ彼ら自身が華麗な文化の担い手というほど成熟はしていなかったと思います。
何故、そんなに強かったんだろう。匈奴の時は強力な矢じりにて漢に圧勝し、漢から多くの富を納めさせたが、元は何が強力だったんだろう。
世界最強の軍馬であるモンゴル馬です。全員が呂布の赤兎馬に乗ってる感じです。
もしモンゴル軍がそのままヨーロッパに根付いてしまったら美しい白人美女はお目にかかることはなく、みんなほお骨の突きだした目の細いデカイ顔の女だらけになってしまっていたのか!とっとと撤退してくれて感謝!!
ある程度混血した方が美人になると思うけどないわゆる純粋な白人はさほど綺麗では無い
中世ヨーロッパの王族の顔ってちびまる子ちゃんみたいなあほ面してるけどホンマにそういう顔なのか?
昔の白人は背が高くない。17世紀のパリでの死体の検死記録からフランス人の平均身長は164cm前後だと推定されてる(あと、貴族の方が平民より概して背が高い)今ですら半数の白人はブサ○クとはいわないけど美人ではないし、健康状態が今よりひどい当時なら、顔は推し量るべしって感じじゃないかな。あほづらかは知らん…
は
非武装平和とか言ってるやつらは、世界史をまじめに勉強しろ。
金国
モンゴル軍は何のために遠征したんだろうな。略奪できる富なんてたかが知れてるだろ。
まあ ドイツ人やフランス人が 日本の戦国大名についての動画を作成すると このレベルかな? この動画 要点は押さえている。ただし あくまでも 歴史 初心者向け だな。
これの何が凄いのかと言うと、全軍ではなくて西方軍のみだった。
強さ的にも規模的にもこれはいわゆる”自然災害”みたいなものだな
とんでもなさすぎる
抵抗はマジ無意味というか余計酷いことになる
モンゴル軍遠征の全体を俯瞰する動画はあまりなく、面白かったです。リーグニッツってほぼドイツの近くなんですね。。モンゴル軍の行軍速度は近代の機甲部隊と変わらなかったいうし、いかに無双だったかが伺える。
チンギス・ハーンのモンゴル統一を掛けたジャムカとの十二翼の戦いとかも解説して欲しいです
本当の意味での「世界史」は規模から言って モ ン ゴ ル 帝 国 から始まる。それまでの歴史は地方史である。
Penping Chan 豊かな表現に研究に深さが気に入りました。モンゴル旅行手配、見積もり可能ですよ。
モンゴルより。
@@TravelMongoliaToursCom-wn4hu モンゴル出身なのですか?
豊かな表現に研究に深さが気に入りました。モンゴル旅行手配、見積もり可能ですよ。
モンゴルより。
滅茶苦茶面白すぎです!
そりゃあ朝青龍や白鵬見たいなのが絶えず攻めてきたら恐怖するだろう
そんな大柄の男では重くて、馬はたまりませんね。
@@イチエフ 馬界にも朝青龍白鵬がいるんだよ、多分
当時のルーシには、ヒョードルやボブチャンチンはいなかったのね。
想像したら怖すぎw
@@イチエフ
乗り換え、乗り換えで
ヒャッハーするんやで
知らんけど
モンゴルつえぇぇぇぇ…よくある調子に乗って突撃ってのもしてないし…ただやっぱり大国だと内部のいざこざが問題になるよなぁ…
分遣隊だけでヨーロッパを崩壊させるモンゴル帝国さん
ヨーロッパの連中は、見たことのないアジア人がいきなり攻撃してきたのだから、びっくりしただろうな。
カルカ河畔の戦いでモンゴル偵察隊と、ルーシ諸侯・クマン人の連合部隊が戦ったのが初めてかな。ルーシ(ロシア)側は惨敗。
ルーシ側はモンゴル軍がどこから来たのか誰なのか知らなかったと言われている。
そして、その十数年後、モンゴルのヨーロッパ大侵攻が始まる。
クマン(キプチャク)人はチュルク系の遊牧民だから、モンゴル軍のことは知っているだろう。
チュルク系だから、西突厥(トルコ)帝国の子孫なので、トルコ人(モンゴロイド)との混血だろう。突厥遺跡などから混血遺骨が出ている。
先住のコーカソイドとの混血の結果、外貌はブロンド族のコーカソイドかもしれない。
モンゴルよりも前にヨーロッパは、アッティラのフン族の侵略を受けてますね。
@@silversurfer512
トルコ系民族(チュルク)の大発展がありました。突厥はステップ地帯に大帝国を作り上げました。シナでは北魏、隋、唐も遊牧民の鮮卑が作りました。チュルクです。
突厥は匈奴の別種と記録がありますから、匈奴は民族的にはチュルクです。
フン族はいろいろな遊牧民族の集合体だそうです。アッティラはモンゴロイド系のチュルクです。カトリック神父の記録があります。
その他、マジャール人、ブルガリア人、ハザール人などもチュルクでしょう。
コーカソイド系の多数のスラブ人部族の抵抗を受けた形跡もなく、ヨーロッパに進出してますね。
マジャール人はハンガリー帝国を作っています。ブルガール帝国から別れた一派がブルガリアを作っています。ブルガリア人はスラブ系化してますが。
現在のチュルクを話す民族はモンゴロイド人種だけではありません。ロシアにはチュルクを話すコーカソイド民族もいます。
中央アジアの国々もチュルク系。トルコ人はアナトリアの先住民族と混血してコーカソイドです。
@@イチエフ さん
『突厥が匈奴の別種と記載がある。』というのは、史記か何かですか?
それだけで匈奴をチュルクと断定するのは、あまりにも根拠が薄いですよ。
当時の中国側の認識では、モンゴルもチュルクも同じ仲間の別種という認識だった可能性もあるので、
匈奴がモンゴル系だった可能性もまだまだ捨て切れないと思います。
たった一行の記載を根拠に物事を決めつけてしまうのは、危険だと思いますよ。
@@silversurfer512
そんな史記などではなく、WIKIに真っ先に書いてあります。(そのレベルの知識ですみません)
(突厥 匈奴)で検索できます。
ジンギスカンの歌を聴きたくなった
あの歌は、西洋人のモンゴル人への憧れなんでしょうか
これもお勧めです!ruclips.net/video/pD1gDSao1eA/видео.html
遊牧民についてちょっと面白いのが、
長い長い遊牧民や騎馬民族の歴史の中で、常に一番東にいるモンゴル高原の部族が一番強くて、
チンギス・ハンのモンゴル帝国の前も後も、遊牧民族、騎馬民族は、いつも東から西へ西へと攻め込んでるっていうことですね。
匈奴がフン族となり、フン族のアッティラがゲルマン民族やローマ帝国にまで攻め込んだこと然り、
モンゴルから追い出された突厥が、ついにはオスマン・トルコという大帝国を地中海周辺で打ち立てたこと然り。
これに対して、ハンガリーやカスピ海周辺にいた遊牧民族、騎馬民族が、逆に東へ東へと攻め込んでモンゴルや中国を支配したなどということは、一度も起きていない(遊牧民、騎馬民族に限定しなければ、アレクサンドロス大王の例などはありますが)
遊牧民はどうしていつも東から西へのベクトルだったんでしょうか?
どなたか御存知でしょうか?
@Hernando Malinche さん
ありがとうございます。
仰る通りですね😄
部分的には、そのように西から東への侵略もあるようですが、
全体的なトレンドとしては、やはりほとんどが東から西へのベクトルですし、
特に、モンゴル高原が、西から来たモンゴル以外の他の遊牧民から支配を受けたことは、
ロシアやソ連の支配を受ける前は、一度もなかったように思われます。
モンゴル高原に住む部族がユーラシア大陸の遊牧民の中で常に最強だった。
その理由が知りたいのです。
ユーラシア大陸の東に行けば行くほど寒冷になり、環境が厳しければ厳しいほど集団をまとめるリーダーの素質が重要になり、結果的に最強の騎馬民族が出来上がるのかと思いました。
より寒冷で環境が厳しい東部ユーラシアの北方の大地であったからこそ部族をまとめ上げるリーダーの素質が大変重要になり、過酷な環境から肉体や精神が強靭になり、それで西部ユーラシアの遊牧民を圧倒した。また、個人的な推測ですが、モンゴル高原から東へ進出しても日本海やオホーツク海へ行き着くだけですが、西へ進出すれば草原を伝って東ヨーロッパまで通じていますし、気温もどんどん上がり住みやすくなります。結果的に東部ユーラシアの遊牧民が西部へ進出していったのだろうと思います。
合戦歴史最高!
モンゴルって家と家畜や食料連れて行軍できて、
しかも二軍に分けて交互に休みながら攻撃するとかやってたんだよね
あれって『敗けた』ことになります?
クリルタイのために主力が撤退中、しんがりがマムルークに追いつかれて蹴散らされただけでは?
ジンギスカン作戦。
それはもう行軍ではなく放牧ルートの変更というべきですね。草原である限り食料の心配がないのはチートですね。
そんな中でも混成軍だとしても日本の鎌倉武士、薩摩武士が勝ってんだから日本の武士団は強い。
@@murasaki9295
海を越えての上陸作戦は難しいのでしょうね。鎌倉武士団も蒙古襲来に備えて砦を作っていましたから、とは言え物凄い数の船で攻め寄せたのを追い返したのは天晴れ日本ですよね。
モンゴルがもし改宗を是とする独自性の高い宗教を持っていたら、世界史は全く別のものになっていただろうな。
モンゴルは人口密集地帯だと力出しきれないから、vs西欧は東欧と比べて厳しい戦いになると思う、だからこそモンゴルvs西欧見たかった...
たしかに元々モンゴル軍は野戦を一番得意としてますが、
このハンガリー平原まで来た時には既にその前に、ヨーロッパ以上の人口密集地である黄河流域の金を攻略した後ですからね。
人口密集地での戦い方も、堅牢な城の攻略方法も、既にかなりの経験と知識を持っていた時期ですよ。
それにこの時代の西欧はまだルネッサンスの前ですから、東欧と比べて西欧が特別に人口密度が高かったわけではありません。
むしろ西欧はいわゆる『暗黒の中世』の時代ですから、
ビザンチンなど、直接モンゴルと対峙していた東欧の方がむしろ、文化的水準は高かったとも言えます。
Silver Surfer そうですね〜、モンゴルは史実でも中国の攻略に成功していますのでモンゴルvs西欧が西欧優勢になるとは私も想像はしていませんね。しかしながらポーランドハンガリーの西方、ドイツ地方は森林地帯なのでモンゴル軍の進行速度は東欧に比べて遥かに落ちるため、西欧勢に反撃・結束の機会を与えることになり苦戦し、神聖ローマ帝国の制圧に失敗っていう感じになるかな〜って勝手に予想しましたw
@@従五位下加賀守 さん
そうなる可能性もあったでしょうね!
ま、どっちにしてもタラレバの話😄想像するのは楽しいですね!
Silver Surfer 返信ありがとうございました。想像が捗るという意味ではモンゴル軍が途中で引き返したのは良かったのかもしれません...w
何だろう…モンゴル帝国を他人事と見なしていた当時のヨーロッパと、初期のコロナに対して他人事だった当初のヨーロッパが被る…
どう考えても、モンゴル軍は「退却」していないよな。内部事情による「撤退」をしただけだな。
この様な歴史があったから所謂「黄禍論」がヨーロッパに存在するのだろうか、或いはこれ以前なのか、ずっと後からなのか?とても興味があります。
更にさかのぼると、フン族のアッティラがヨーロッパを蹂躙して、それがゲルマン民族の移動の一因にもなっていますね。
元をただせば単なる気候変動
これ帰還命令がこなかったら、ドイツ、イタリア、フランスもモンゴル帝国の勢力圏になってたんじゃ?
そうなってたら現在の盟主は欧州じゃなくてアジアだったかもしれないですね…
一時的にモンゴル系の王朝は出来ただろうけど、中国と同じ感じになるんじゃないかな。
モンゴルよりも前にフン族のアッティラはイタリアやフランス、ドイツまで攻め込んでますが、
やはり支配は長続きはしませんでしたね。
逆にもし、アレキサンダー大王がもう少し長生きして、インドを征服して、東南アジアを越えて中国まで攻め込んで来ていたら?
スリランカやマダガスカル、東アフリカまで到達していたという明の鄭和の大艦隊が、それらの地域に本格的な植民地を作っていたら?
想像するのは面白いですね😄
大幅に歴史は変わってだでしょうね。
@@TheA9817020 実際にロシアはタタールのくびきと呼ばれるように200年以上モンゴルに支配されてるけど、結局、中国のように追い出してるからね。一時的に支配されても、結局は同じ流れにいきつくと思う。
10万の内6万人を失うって壊滅を超えて滅亡じゃないか
滅亡というより玉砕に近いな…
彼の最大の功績は、どれだけ情報や物流を残したのか、という一点に尽きると思います。
ジャムチという、通行手形、各地に駅(沢山の馬を乗り換える為)を作りより早く情報を得ています。
駅と言う漢字に馬が入っている事をお見逃しなく。
駅という漢字を作ったのはモンゴルではなく漢民族ですよ。
面白かった。
なんでこんなに攻城戦がつよいんやー
この頃のロシアの城は、丸太の城壁でできており、土を固めてできた中国や中東の城と比べ弱い。
石造りの城壁はずっと後のこと。
合戦歴史、解りやすく見ていて楽しい(*´∀`)♪
そういやもしモンゴル軍が撤退せずに西ヨーロッパも完全占領したらイギリスはどうなるんでしょうかね?
多々良小傘
日本と同じく普通に撃退してたと思うよ。
モンゴルは陸では最強だけど、海の上では雑魚だから
3910 339 いやー、それは無理でしょ。海峡間が狭いし何度も海峡を渡って侵略の歴史がある。
モンゴル軍を道案内してたやつ捕まえたらイングランド人だったって逸話ある。
いや普通に無理だと思うよ。
ノルマンディー上陸作戦するに決まってるだろ(時代錯誤)
モンゴル帝国の動画って細かい物だと元時代しかないからヨーロッパのはガチでありがたい
この国はチンギスやオゴデイが有能だったのもそうだけど遊牧民だから普通に超人的な移動にも慣れてたしこんな四面楚歌な状況でも押してたんだよなぁ...
カスピ海、黒海を超えてようやく東ヨーロッパの端にたどり着くのか@_@;
圧倒的な戦力で世界を征服しておきながら気が向かないからと突然帰ってしまうモンゴル軍って不思議。まるで子供のお遊びですね。
お宮さん 相手が弱過ぎて本当にその程度にしか思っていなかったかもね
やつらは、牧草地が欲しいだけだったりするねw いらん都市は住民ごと滅ぼして牧草地に!
そういうことですか。狂ったように都市の破壊を繰り返してきた理由もよくわかりますね。
都市を破壊し尽くした言うのは嘘ね。モンゴルが衰退したあとから言い始めたデタラメ。
破壊したはずの街に、数年後に訪れた人が街は繁栄していたという記録があるらしい。
パックス・モンゴリカと言われるほど、モンゴルの支配で都市は平和と交易で栄えていた。
税金さえ納めれば、あとは各民族が自分たちのやり方で都市を運営できた。宗教も無税で自由だった。
イチエフ キエフの街は破壊しつくされたと歴史書には書かれているけど。近代兵器が無い時代だから石でできた城壁に囲まれた街なら放火しても破壊するのは難しい。残った街もあるのでしょう。
歴史の年表みてもわかるけど、モンゴル軍の進軍の速さは異常だ
そのモンゴル帝国より1500年以上前、アレキサンドロス大王は、たった10年の間にギリシャからエジプト、ペルシャ、アフガニスタン、パキスタンと征服して、インド西部にまで攻め込んでますね😄
モンゴル軍怖すぎる❗️破壊し過ぎ❗️
その後サライに到着したバトゥは
彼の地でハーンになり金帳汗国(キプチャック=ハーン国)を建国したのでした。一説にはオゴタイの長男グユクと仲が悪くモンゴルに戻ってもハーン候補に洩れる可能性が高いと悟っていたようです😔😔😔😔😔😔😔😔
そう思うとモンゴルに陸戦で勝ったベトナムすげー。どうやって勝ったかは知らないけど
Well only yuan empire raided them if that was all Mongolian empire force only few historians know that Vietnam
ベトナム戦争と一緒、ジャングルに籠ってゲリラ戦やぞ。ジャングル内じゃ駿馬も無意味だからな
兵数が圧倒的に負けてる方は奇襲かゲリラ戦術を採るしかないからな
まあ勝ったというよりは、負けなかっただけであるが。
ベトナム戦争もそう。ベトナムがアメリカの領土を獲得したとかならまあ勝ったとも言えるが
ベトナムはアメリカを空爆すらできなかったし(そもそもそんな技術も航空兵力もない)、ただ負けなかっただけ。
欧米とガチで全面戦争をしたのはモンゴルと日本くらい
ベトナムは常に防戦の歴史ですからね。対中国、アメリカ。
海での戦いに慣れてないとは言えこれだけの大国に勝った鎌倉武士って半端ない。
モンゴル軍は騎馬兵力だけど、日本に攻めてきたのはモンゴルの家来の高麗兵だ。モンゴル人はいない。
また、南宋水軍の棄民兵だ。
モンゴル軍(モンゴル人はいない)は海での戦いはすべて負けている。
第五代将軍の徳川綱吉が戦国時代の荒々しい武士の風潮を一掃するために生類憐れみの令を出したと言われていますね。天下の悪法から、評価が180°変わりました。
そして、武士は公務員に変わりました。
@SS兄貴
野蛮ではない。統制のとれた勇壮で意気軒昂な、かつて源平の戦で鳴らした関東の平氏出身者が九州地区に所領の地を得、彼らの子弟が中心となって組織された優秀な軍団だ。
本物の武士の精神を有するツワモノ。
元禄以降の武士は士族の地位に寄りかかって生活した腰抜けサムライだ。
kei yu 確かに武士たちって集団戦法使ってたからね
鎌倉r時代って街道も整備されてなく、追い剥ぎが出没するという時代でしょう。京に上京したら、戻る事ができず羅生門の前で行き倒れ。
高麗兵(モンゴル兵)が来る前に博多に到着した鎌倉武士は、博多の街を略奪したと言われているよ(食うものがないから)。
江戸時代と異なり、当時は略奪しないと生きていけないほど、食うものが少なかった。
18:10〜辺りから流れてるbgmなんですかね...気になる
しかし、時の流れに勝てなかった。
農耕民族でないので家畜とゲルと武器さえあれば闘い続けることができる。徹底的に破壊したので背後を突かれることもない。東ヨーロッパのバラバラ敵対関係の諸国にはエイリアンの侵攻だったろう。敵を理解できずに負け。そういうことだったのかと勉強になりました。
ヨーロッパがいちいち内輪揉めと策謀で対応できてなくて草
EUと英国。 英仏が仲間でいられる訳がない。 英独も仏独も良好な関係なんてありえない。
今でもやってんじゃん!
そしてモンゴル軍もこの前のホラズム・シャー国侵攻の時から、親族同士で仲間割れ。
二代目のオゴダイが死んだ後は本格的な骨肉の争い。内部分裂が始まりましたね。
こんなに凄い国が、どうして今のようになってしまったのでしょうか?
元の時代に中国化しちゃったからね。ユーラシアに散った一族の帝国もバラバラに解体されたし
近代に入ると日本、ソ連、中国にちょっかいを出され、内モンゴルと外モンゴルに国が分かれたりと大国の思惑に翻弄され続けた
騎馬民族は人口が少なすぎるからね。
騎兵の機動力と弓
馬に乗りながら弓射てる
無敵の戦術も
銃の時代になれば
すずきもとゆき なんか朝鮮と同じような感じか
ホルティミクローシュ 別にそこのとこを言ってるわけじゃない
よくあの時代に陸路でヨーロッパまで行こうと思うよね。征服しても維持できないと思うけど、土地を支配するより、略奪できればくらいの感覚だったのかな?
本国まで持ち帰るだけでも大変だと思うが。
ところで、この辺の侵攻の歴史ってモンゴル側では文書で残ってるんでしょうか?
それとも迎撃した側の記録?
何のために遠征したのか非常に不思議だ。入植しないなら意味ないじゃんと思う
敗退した側が作ったデタラメの歴史書が多い。特にロシア側の歴書はインチキで、18世紀に言われ始めた「タタールのくびき」説がいまだに言われている。
モンゴルの支配下で、モスクワが発展し、ロシア、ベラルーシ、ウクライナが作られた事実を隠している。
モンゴルは税金さえ払えば、都市の運営はそれぞれの民族の主体に任せた。宗教も自由だった。
モンゴル人も定住化した人々は多数の周辺民族と混血して、現地化し現地人と区別ができない。
イチエフ
日本的な思考なら歴史書デタラメって想像できないんですが、外国だとそんなもんなんですね。遠征の理由は人類として、混血することをDNAが本能的に求めてるのかもしれないなと思いました。
ほとんどの『歴史書』なんてインチキ。一方的なことしか書いて無いけど、モンゴル族は自前の文字を持ってなかったので、シナの王朝記とかペルシアの集史に頼るしかない。まあ、支配される側からするとかなり酷いことをしたんだろうと想像するくらいしか。それでも宗教弾圧は無かったとどの国の記録にもあるので、宗教の自由があったのは分かっている。
ちなみ、遊牧騎馬民族の遠征の目的は収奪。貴金属や穀物、シナではシルクなんかを巻き上げるだけで、その土地を『支配』しようとか思っていなかったらしい。だからシナで明王朝が勢力を増した時、“蒙塵”といってモンゴル高原にさっさと後退している。基本的に『農耕民族』とは生活様式が違いすぎて、日本人には理解しにくい部分が多い。
チンギスの名臣、耶律楚材が『馬上で天下は取れても統治することはできない』と諫言したが、果たして理解していたかどうか・・・
クヌギタックルさん
耶律楚材の言で良く理解できました。
我々農耕民族は、土地に執着するけど、
確かに騎馬民族的には大きな比重は占めませんよね。
東欧諸国が今も余り富国が多くないのには、このモンゴル帝国の侵攻と徹底的な都市破壊も原因の一つなんじゃないですかね〜
WW2で共産圏に飲み込まれたからだと思う
そう、共産圏に傾向した結果。
反共を唱えたドイツは富国に復活してる。
まあ単純に二度の大戦で蹂躙されて国が荒れたり、国境線が安定しなかったこととか、そもそも国が小さかったりとかもある。
西欧の発展の最大の理由はアメリカ大陸からの富の移転です。アメリカ大陸東海岸と西ヨーロッパ沿岸地域での貿易が活発化するに連れて西欧は発展しました(資本の本源的蓄積)。大航海時代以前はアジアとの貿易が西欧より活発だった東欧の方が発展していました。そもそも大航海時代の主要な理由は地中海の貿易ルートをオスマン帝国に蓋されてしまった事です。なのでヨーロッパの中でも一番西側でジリ貧になったポルトガルやスペインが海へ出ていきました。ポルトガルやスペインはアジアとの貿易を求めて海へ出た訳ですが、ここにはモンゴルの影響があります。世界のあらゆる地域はモンゴルの支配というのを直接的または間接的に経験しています。モンゴルの支配というのを世界のあらゆる地域が経験し、それによってかつてない世界の広さを思い知ったのです。ヨーロッパ諸国が海へ出た理由にはこの背景があります。大航海時代もモンゴルの延長線上だと言えると思います。
もしオゴデイさんがもう少し生きていたら...
もしバトゥが帰還命令を無視していたら...
((((;゚Д゚)))))))ガクブル...
モンケはキエフに降伏する旨の勧告文を送った。
キエフの王はモンゴル語で書かれた文の意味を理解することができず、無視することしかできなかった。
っていうこととかないのかな?笑
欧州は兵略って余り有効に仕えないよね。
有名なタタール人にはアリーナザギトワ選手がいますね!
モンゴル軍が元寇で日本に勝てなかった理由
一番は普通に鎌倉武士が強かった
二番は半島が味方だった
三番は海を隔てて騎馬戦法が使えなかった
馬がなけりゃあ、モンゴルの連中も河童みたいなモノよな
あとどこの国もそうだろうけど上陸戦ドクトリンがなかったことかな?
世界で唯一モンゴル兵の射程を上回る大弓が存在していたことと、世界で唯一の重装弓騎兵が命を恐れずに突撃を繰り返すキチガイ蛮族の地だったこと
日本に来た元軍にモンゴル人はほとんどいない。高麗人とか江南軍で構成されたモンゴル外人部隊。しかもモンゴルは江南軍の始末に困っていたので、日本で廃棄処分ができた。兵士も総じてやる気なし。こんなものをモンゴルだと言うべきではない。
正義のユーチューブの広告面白いな。
モンゴル軍もっとヨーロッパに居ればよかったのになぁ…
そのかわり美しい金髪碧眼美女はみんなカッパ顔の女になってた
@@digwart1454 日本人みたいなねw
実はフレグの征西の目的も最終的にはフランスやイングランドの征服でした。バトゥの征西やフラグの征西も、両方とも大ハーンの死で撤退しています。バトゥは背後からグユクに攻撃される恐れがあった為です。たらればの話ですが、フレグの征西でエジプトが崩壊した場合、北アフリカから地中海沿岸を通ってイベリア半島(スペイン)に上陸してヨーロッパを目指したと思います。なぜならイスラム王朝がかつてそのルートでヨーロッパ侵略を行った歴史があるからです。ジョチウルスとの協力があればアフリカ方面と東欧方面からの挟み撃ちでヨーロッパを征服できたかもしれません。モンゴル帝国は内紛が激しいのであり得ない可能性の方が高いですが。
この時代、ブルガールの存在をどうやって知ったのでしょうか?
チンギスの長男は、実子やないって話があるので、遠征をやらされるんやろうね。
これに比べたら大日本帝国は優しすぎたね
弱すぎたの間違いね。
@@tosiasaitou3722 兵士は強いんだがな
この圧倒的な強さ、モンゴル帝国史の恐ろしくも痛快な侵略の歴史ですね。後半は歴史の常で悲しいものであっても。
エジプトで敗けたのは、オゴデイが死んでクリルタイの開催が決まっていたので撤退中のしんがりが蹴散らされただけ。ヨーロッパは当時、文明的には“田舎”なので進撃する価値無しと判断したっぽい。そも、その当時のヨーロッパ列強はハンガリーとかポーランド。フランスは現在の半分くらいしか領土がないし、イギリスは片田舎の辺境島(しかも内部統一以前)、ドイツは神聖ローマ帝国時代で内部バラバラ。タタール再来の場合、これらが抗しうる可能性は限りなく低く、ヨーロッパ“大陸”ではなくヨーロッパ“半島”になっていたと思われ。
『西欧』(英仏独)が強大国になるのはまだ随分と先。
この時代は『十字軍』と重なることを考えれば解りやすい。田舎の国々がキリスト教世界で発言権を持つために参加したのが十字軍。その十字軍はイスラム勢力に食い込むのがせいぜい。最終的には中東から撃退されている。それと比べれば、イスラムと近い位置にあった東欧はそれなりの軍事力を有していた。無論、文明も。特にハンガリーなどはビザンチン帝国(東ローマ帝国)の近隣ということで文明度は高い。またハンガリー領内に移り住んだ遊牧騎馬民族を自軍に組み込んだりもしている。
詳しくは、モンゴル帝国に関する著作を読めるわかる。
クヌギタックル 十字軍戦争の原因が分かる?
ヨーロッパが復興し過ぎて、人口が溢れたからね。人口溢れて当然に商業貿易も盛んだ。これは田舎だと言える?ローマは崩壊しても、ローマの宗教領地が保留し、ローマ市と繋がっている。田舎者と言えるのはあくまで5世紀から8世紀まで侵入者領主だ。
何百年の建設もあって、詩歌・礼儀・法律・経済などは全部先進的なものである。例としては、現代の銀行や信託は12世紀のフランスで初出現したのよ。
桜維新
よく分かった。
アナタがヨーロッパ、特に西欧信仰の徒であることは。そんなアナタには『十字軍物語/塩野七生著』辺りをオススメしとく。ついでに『モンゴル帝国の興亡/岡田英弘著』辺りも。
クヌギタックル ???ハンガリーが文明高いだと?東ローマと近いから文明高い?あなたの歴史は地図を見て自作した物ですか?
ハンガリーの宗教は正教じゃないよ、長い時間に東ローマに影響されてない未開化、むしろフランク大帝に影響されて漸く文明化した、証拠は宗教がドイツ伝来の天主教だからね。ハンガリー5世紀外来に占領されるから、ずっとスラブ野蛮人に侵略される。彼らとビザンツとの間はスラブ野蛮人の諸国に阻断されている…
ハンガリーは歴史から住む人が少ない、後にアジアの遊牧民族が侵入してそこに定着、今の🇭🇺の名前を見ればわかる。
朝青龍とチンギス・ハンが重なって仕方なかったし、朝青龍がめちゃくちゃ強かったからそりゃモンゴル帝国強いわなと納得しちまったよ。モンゴル人には、海なかったらガチで日本征服されてたかもと思ってる。相撲のモンゴル勢の圧倒的強さヤバいからな。
朝日新聞紙は潰れろ 寄生虫です 白鵬。
モンゴル軍ヤバすぎて笑ったwヨーロッパ行ったとは聞いていたけれどマジでオーストリアとか東欧まで行ってたのかよwあの時代にあんな遠く離れた所まで行こうとする冒険心も凄いと思うし、あんだけ遠距離の遠征で季節や風土の違いを無視して暴れ回るって意味不明すぎないか?
言うてモンゴルからヨーロッパまで数千キロだし、馬に乗って時速数十キロメートルなら意外と早く着く
モンゴルヨーロッパ遠征軍を謎のイギリス人修道僧が先導していた事実。
何それ怖い
ソースは?
モンゴル軍のイギリス人使節―キリスト教世界を売った男 (角川選書)
@@みのる-g9g へ~、そんなのあるんだ。モンゴルのことは興味を持ってきたが、初耳。貴方は詳しいのかな?
まぁ調べみます。ありがとう。
この頃からブリカスなの草
ドイツや日本を非難する奴らはまだまだいるが
こいつらを非難する奴はもういないのか(笑)
それどころか歴史的英雄なのか
冬のロシアに勝つモンゴル軍と、全盛期アメリカを撃退したベトナムよ....
アメリカはホーチミン裁判で裁かれるべき‼️
大河が凍ってないと馬の進軍はできない。
敗戦の原因は、アメリカ軍に韓国軍が加わったからだね。
韓国軍は傭兵だから占領地に責任を持たない。だから虐殺を平気で行い、地元民を敵に回す。
こうなると、ジャングルのどこを進軍してるか、敵軍に筒抜けになる。
地元民をいかに味方にするかなど考えない。
ベトナムがアメリカに勝ったって所詮写真やんけ
経済的に圧倒していた南ベトナムでは政治の腐敗と汚職がはびこり、国民に愛想をつかされ、捨てられた。
また政権の中枢にまで北ベトナムのスパイが浸透しており、南ベトナム崩壊は時間の問題だった。
敗戦後、南ベトナムに進駐した車に、北ベトナムの国旗と南ベトナムの副首相が乗っていた。
当時のヨーロッパには鎌倉武士ほどの戦闘力がなかったのかな?
あの辺りの女性がキレイなのってこういう歴史があるからなんやね
現代のEUが中国資本に弱い理由はモンゴル軍のトラウマが根底にあるんやろなw
長い年月をかけて超大国本来のポテンシャルを発揮してきたからでしょう。近代という特殊な時代は中国やインドと言った超大国には適応するのに時間がかかり過ぎます。しかし時間が経てばやがてテクノロジーの発展等近代化の産物を受容し、社会が成熟してかつての様に超大国としての中国やインドとなるでしょう。今ではアメリカも超大国ですが。ヨーロッパ、というよりドイツやイギリスは超大国ではありません。国土面積、人口、資源等諸々の条件を考えても中国やインドとは並びません。超大国には超大国たる理由があるのです。
蒙古馬なんて日本の在来種よりも一回り小さいのにね、原チャリに載った朝青龍や白鳳の大群に攻められた感じかな??
ヨーロッパ侵攻の頃のモンゴルは各地で混血して白人的な容貌を持つ者も少なくなかったそうです。スキタイなどがモンゴル系ヨーロッパ人ですね。
そうかな?ソースは?
少なくとも大将とかその他の上層部はモンゴル高原中央からきた純血だったんじゃない?
スキタイ(イラン系)ですね。モンゴル以前に突厥(トルコ系)、更に前に匈奴(トルコ系、モンゴル系?)がいますね。
スキタイから匈奴に騎馬の技術が伝わったと言いますね。
モンゴル支配層は血統を大事にします。チンギス・カンの男系子孫しかハンになれません。(チンギス統原理)
スキタイはモンゴルよりもずーっとずーっと古い時代ですね。
モンゴル軍の西征の時代も現代も、スキタイという民族は存在しません。
新疆ウイグル自治区で発掘されたローランの美女は3800年前の、完全なコーカソイドのミイラです。コーカソイドは、この辺にずっと住んでいたんです。更に広く、このあたりからヨーロッパまで小さな部族単位で、広がっていたのでしょう。
その後、モンゴル高原あたりで出現したモンゴロイドが、西進して広がっていきます。特に突厥帝国(トルコ)の発展は目覚ましいものでした。
モンゴロイドからコーカソイドまでチュルク語を話す民族が多く誕生しました。
シナの北魏、隋、唐を興した鮮卑族もチュルクらしいです。
侵略略奪山分けの繰り返し
滅ぶまで続く。撤退は敗北。
これだけ広大だと略奪しきれないというか、逐一本国まで輸送させて溜め込んだんですかね?
@@nack6959
モンゴルの略奪もあったろうが、婚姻で親戚関係になる戦略も多かった。チンギス・ハーン500人の妻がいて、各領主や部族長が積極的に娘を差し出し親戚関係になった。
保護国となったんだね。税金さえ差し出せば各領主の裁量で自分の都市を運営できた。一方、兵士はモンゴル軍に組み込まれた。
差し出された娘も一応王女だから、丁寧に扱う必要があったろうけど、こんなに多くてどうしたのかね。
結局、チンギス・ハーン家の一族で分けたんだろうと思うけど。
@@nack6959 さん
モンゴルは元々狩猟遊牧民族だから、物を溜め込むということにはあまり興味なかったんじゃないですかね?
とりあえず攻めて倒して、力と恐怖で服従を誓わせて、女や酒、欲しい物は奪って、
いっしょに従ってついてまわったウイグルやチュルク、イスラムの商人なんかもいただろうから、
いわゆる財宝の類は彼らに任せて、目録ぐらいは作らせて、
モンゴル人の軍人たちは、あいかわらずゲル(テント)に住んで、馬たちといっしょに更にどんどん西へ進む。
@@silversurfer512
オゴデイハーンがクリルタイを開き、世界征服を決定した。その計画に基づいて、各地を調べ上げ征服を行った。まず最初はヨーロッパ征服だった。
モンゴル軍は請負制だから、略奪品や人間公平に出資者(参加部族)にわけられた。
戦線から離れ、略奪品を回収しようとした部族は厳しく罰せれれた。
そんなイメージですね。高速焼畑農業的で、略奪原資がなくなるか、略奪分配差配が上手に出来る君主が居なくなれば瓦解。文字と文明の蓄積が薄いので、非征服民族の書く歴史からは消え、血は残り続けるんでしょうか。
??「朝青龍の音ぉ!」
モンゴルの軍師ってのは、居たのでしょうかね?
この人たち国を取るつもりじゃなくて狩りの延長できちゃってるよね・・
「今年はいい獲物とれたなー」って喜んで帰って行ってる感じする(笑)
モンゴル軍と言っても多民族集団だし今のアメリカみたいな感じか?
今のアメリカみたいに人種まで雑多ではないだろうけど。主にモンゴル系、中国系、中央アジア系、トルコ系などを中心とした感じかな。まぁ大将とか上層部はほぼモンゴル高原中央からの連中だろうけど。
ヨーロッパの君主たち逃走ばっかりだなw 北条時宗のほうがよほど立派だ。
北条時宗は英雄ですよね。
もっと評価されて、銅像とか神社とかあってもいいと思います。
追記・鎌倉幕府が出来てすぐに承久の乱があったから、
明治維新後の歴史観では、北条氏は朝敵扱いなんですね。
Silver Surfer なるほどそう言うことかだから頼朝の銅像はあるんか
あなた地続きの恐ろしさ知らないから、、
@@1126rr シミュレーションゲームでも毎回思うけど海って言う防衛ラインくそ強いんだよなぁ( ;´・ω・`)
陸続きだとめっちゃ防衛難しいw
ハンガリーの王とかは戦争に負けて逃げたけど、その後モンゴルに荒らされた国の復興に尽力して結構評価されてますよ
解説の声が聴きづらい。
さすが、朝青龍や白鵬の故郷U^ェ^U
破壊と略奪、殺戮の限りを尽くし、ヨーロッパを席巻したモンゴル帝国、史上最強の軍団。その侵攻を退けた鎌倉武士が如何に凄いかがわかる。
鎌倉武士が戦ったのはモンゴル軍じゃなくて、高麗軍とか江南軍などで構成されたモンゴル帝国外人部隊。参加した兵士はやる気ないし、鎌倉武士が特に強かった訳でもない。
@@hd580
その通りです。モンゴル軍は敵国は降伏すれば、家来にして、歯向かえば破壊したのです。
実はモンゴルが日本に襲いかかる前に、数十年も勇気ある高麗人が盾になっていました。また、鎌倉幕府は東北地方まで何重にも御家人を配置しており、例え台風という神風が無かったとしてもモンゴルを撃退していた可能性が高いです。この時は泥棒までもが蒙古撃退に協力する為に肩と肩を組んだと言われています。
焼き畑農業のように人の富を取っていくのね。
ロシア人とモンゴル人は仲良くしているのだろうか。
コレって、ある意味日露戦争の時より意味有ると思いませんか。
思わんね。そもそも侵略しまくりの大悪党国白人打ち破りより防衛で何処から攻めてくるか判らないロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本の方が凄いと思います(断言)
比較するのが間違いでしょう。衰退したロシアと極東の小国との戦争が、モンゴル帝国の西征と何を比べられるの?
世界史に疎いんだけど、
なぜ、遠征を中止したの?
大ハーンを選ぶ時の選挙には有力皇族は強制参加だから本籍地に帰った
@@deadby15
ありがとう。再遠征はなかったんだね。
オゴデイハーンが死んで、次のハーンを選ぶためのクリルタイ(最高意思決定)が行われた。
また、寒冷化が進み、ヨーロッパの草原での家畜の放牧が不適当になってきた。その為、十分に草があるステップ地域に留まった。
十字軍とくらべてどちらが凶暴なんだよ。
朝青龍みたいな奴等が
馬乗ってヒャッハーするんでしょ?
誰も勝てないよ
そのモンゴル帝国に勝つ日本とベトナム、日本は最初は台風で命拾いして二度目の戦いは高い厚い壁を作り戦術や軍事改革をなして勝利、ベトナムは異常なまでの暑さ地の利を生かして勝利
おい、シンガサリ王朝のこと忘れてるぞ。
日本が勝った訳じゃない、たまたま自然が勝ったんだ。台風無かったら日本は即絶滅してる。
日本は神風のおかげだから
三別抄の乱
日本は騎馬隊来てないからメッシのバルセロナをバスケでボコボコにしたような感じ
都市を破壊ってなんか現実感がないのだが、、、
なんか分かりやすい例えないですかね?
東京大空襲?
原爆とか…?
1000人の中国人鉄砲隊を連れたモンゴル軍
バクダードの戦い
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ロシアの冬将軍どこにいった
モンゴルも同じようなもん
モンゴルのほうが寒いって聞いたことあります
字幕付きって、字幕無いじゃん!
東の某島国に攻めこんだのは失敗かもね。戦闘民族がいたし(笑)。
苦境につけこみ
2014年のクリミアを思い出したよ
変わらないね
そのモンゴル軍を撃退した鎌倉武士の強さ!馬がいてもいなくてもモンゴル軍は十分に強かったはずだ。
日本に攻めてきたのはいわゆるモンゴル軍ではなくて、モンゴル軍の外人部隊。モンゴル人はほとんどいなかった。
冬のロシアを制圧って、モンゴル半端無えな😅
川が凍ってないと馬で攻撃できないからね。凍った川を遡って移動したらしい。
モンゴル軍人にとってロシアの冬は日常風景、彼らはシベリアで生活してそこから台頭してきたから。
モンゴルしかり、日本陸軍しかり、アジア最強、欧米敵にあらず‼️
ヨーロッパがとにかくgdgdだけど、もし元寇が観応の擾乱の時期だったらもっと酷いことになってたかも。尊氏とか直義とか直冬とか時行とかなら簡単にモンゴル側につきそう。
一年、草原で休みって言うのは、「現地調達」or「備蓄食料」?
でも、モンゴルは遊牧民だから「自給自足」もありえる?
モンゴル軍のはるか後ろから、羊の群れを引き連れて一族の女達がテントを持ってついて行く。
ジンギスカンも遠征のときは4人の妻のうち一名を指名して連れて行った。
@@イチエフ とある国の将軍が「現地調達の牛連れて行軍すれば行ける、ジンギスカン作戦じゃーい」
とか何とか云ってインパール作戦やってましたね
@@popocatfish
そうですか?
アジアのジャングルの牛は水牛ですね。一日中、水辺で生活してるような動物です。生草しか食べないし、動きも鈍いので連れていくのは無理でしょう。集団行動もしない動物でしょう。
遊牧民の家畜は群れる性質があるので、わずかな数の人で群れを操れます。馬なども、脚で雪を蹴り除き、下の草を自分で食える特徴があります。また戦いで馬を捨てても、帰巣本能があり、自分で故郷に戻るそうです。
アジアのジャングルは緑の砂漠と言われているように、食料は得られません。(ある時期だけ一斉に果物ができるようです)
そういえば、アフリカの森や草原などでチンパンジーが集団で生活してますが、アジアのオランウータンはジャングルで孤独に樹上生活しています。集団では、十分な食料が得られず生きていけないのです。
アジアの熱帯雨林ジャングルはそういう所です。インパールも同じでしょう。
牟田口廉也もジャングルの雑草を自分で煮て、食えないか実験してたらしいです。
鎌倉時代に日本がモンゴルに侵略されてれば今の日本はなかった。
それを救ったのが二回の神風。
モンゴルが攻めてきた時に神風が撃退。
しかも二回も。
これは神風が日本を守ったとしか思えん。
オゴデイが死んでなかったら、遊牧の蛮族にヨーロッパの華麗な文化が破壊されてたと考えるとゾッとする
まぁヨーロッパもなかなか野蛮でしたが
@@自称皇帝 まあ人間どこだってそうでしょ、しかし西洋文明とモンゴル文明ならどう考えても西洋に価値を感じる
中世のヨーロッパで最大の都市はジュチ・ウルスのサライだ。人口60万人とも言われる。ロシア、タタールスタン共和国の自慢だ。シルクロードがつながっていた。
@@ウマナミの皇 そう言ってるんだよなぁ むしろ遊牧民の方が優しそう
ルネッサンス前の当時の西ヨーロッパの文化を『華麗なヨーロッパ文化』と呼べるかどうか?
中世のヨーロッパを象徴するのがゴシック建築やゴシック文化ですが、このゴシックというのは『ゴート族の』という意味ですが、『野蛮な』とか、『奇怪なもの』という意味も含まれています。
ゴート族は西ローマ帝国に侵入してローマ文化の破壊を行いましたし、
その後も同じくゲルマン系のヴァンダル族やフランク族が西ヨーロッパへの侵入と破壊を繰り返しながら、今のドイツやフランス、スペイン、イギリスの元となっていきました。
モンゴル軍が東ヨーロッパを荒らしている時代はまだ、それらの国々が形作られていく途中の段階ですので、
まだまだ彼ら自身が華麗な文化の担い手というほど成熟はしていなかったと思います。
何故、そんなに強かったんだろう。匈奴の時は強力な矢じりにて漢に圧勝し、漢から多くの富を納めさせたが、
元は何が強力だったんだろう。
世界最強の軍馬であるモンゴル馬です。
全員が呂布の赤兎馬に乗ってる感じです。
もしモンゴル軍がそのままヨーロッパに根付いてしまったら美しい白人美女はお目にかかることはなく、みんなほお骨の突きだした目の細いデカイ顔の女だらけになってしまっていたのか!とっとと撤退してくれて感謝!!
ある程度混血した方が美人になると思うけどな
いわゆる純粋な白人はさほど綺麗では無い
中世ヨーロッパの王族の顔ってちびまる子ちゃんみたいなあほ面してるけどホンマにそういう顔なのか?
昔の白人は背が高くない。17世紀のパリでの死体の検死記録からフランス人の平均身長は164cm前後だと推定されてる(あと、貴族の方が平民より概して背が高い)
今ですら半数の白人はブサ○クとはいわないけど美人ではないし、健康状態が今よりひどい当時なら、顔は推し量るべしって感じじゃないかな。あほづらかは知らん…
は
非武装平和とか言ってるやつらは、世界史をまじめに勉強しろ。
金国
モンゴル軍は何のために遠征したんだろうな。
略奪できる富なんてたかが知れてるだろ。
まあ ドイツ人やフランス人が 日本の戦国大名についての動画を作成すると このレベルかな? この動画 要点は押さえている。ただし あくまでも 歴史 初心者向け だな。